以前勤めていた職場は大通り沿いにありましたが、通りから一歩裏へ入ると、そこは住宅街でした。
私は通勤時、その住宅街の一角にある、職場が借り受けた駐車場を利用していました。
ある日、駐車場の前まで行くと、小柄なお爺さんがうずくまっているのを見かけました。
怪我はなさそうです。
普段着の様子なので、自宅が近いのかなと推測しながら、声をかけました。
お爺さんは上目遣いにこちらをチラッと見てから、
「気分が悪い」と弱々しい声で返事をしました。
何度か救急車を要請するかどうか確認したのですが、必要が無いと首を振ります。
「血糖値が下がってフラフラする。飲み物を買いたいがお金を持っていない…」
私はすぐ近くにコンビニがあることを知っていました。
早急に甘いものが必要なのだろうと察して、
「では私が買ってきますよ。何がいいですか?」
「いや。自分で行く…」
「フラフラの状態で歩くと危ないので、私が買ってきますよ」
「いや、いつも飲んでいるものがあるから…」と、お爺さんはゆずりません。
私は買いに行くことをあきらめて、自分の判断で財布から百円玉を三つつまみ出してお爺さんに渡し、動こうとしないお爺さんを残して、そこから立ち去りました。
後に職場で同僚にこの話をすると、彼女いわく、あのお爺さんはアルコール依存症であり、同様の手を使い、知らない女性をつかまえてはお金を無心するのだと言います。
私はお爺さんのなりふり構わぬ行為に呆れると同時に、「依存症」に加担してしまったのだろうかと考えると、少し複雑な気持ちになりました。
それから何週間も経ったころ、再びそのお爺さんを見かけました。
大通り沿いの歩道を歩いていると、手ぶらで普段着姿のあのお爺さんがこちらに背を向けて、三十歳前後とおぼしき女性と立ち話をしています。
その女性は明らかに戸惑いの表情を浮かべて、お爺さんの顔をうかがっています。
お爺さんがお金の無心をしていることは容易に想像できました。
私はお爺さんの背後から、女性に向けて、両腕を大きく×の字に交差させて、続けてお猪口を手にもってグイッと呑むしぐさをしました。
そのサインの意味が女性に届いたようで、女性が軽くうなずくのを確認しました。
私は何事もなかったかのように二人の横を通り過ぎました。
◇
そのころの私は、職場の集会や宴会などでビールを呑む以外に、自宅でアルコールを口にすることは全くありませんでした。
お酒を美味しいと感じたことがなかったからです。
ですから、「アルコール依存症」というワードを見聞きするたび、(アルコール依存症は他人事)(私は絶対に大丈夫)と、自分に自信を持っていました。
◇
その職場を退職して何年も経ったある日、たまたまお土産に貰った二合ほどの小瓶入りの大吟醸酒が、日本酒に対する私の印象をガラリと変えました。
それまで、焼酎や泡盛、日本酒という類は、アルコール臭いもので、料理にしか使えないと決め込んでいました。
ところが、キリリと冷えたその大吟醸を、「さて、味見でも」と、さほど期待の無いまま小さなグラスに注ぐと、カンロ飴を溶かしたような薄い黄褐色の透明な液体が、ワインではないかと粉(まご)うほどの香りを放っていたのです。
私は一杯のグラスを、ひと口ひと口香りと共に傾けました。
ほろ酔いの心地良さのなか、(もっと呑みたい)(また呑みたい)と思いました。
◇
以来、現在の私は自宅で割と頻繁に、日本酒だけでなくビールもワインも呑むようになりました。
私はアルコール依存症ではありません。
しかし、飲酒の年数を重ねるにつけ、折に触れ、あのお爺さんのことが頭をよぎるのです。
アルコール依存症は、長期に渡って過剰に飲酒したことにより脳機能が障害される、脳の病気です。
性格や意志の弱さが原因ではなく、誰にでも可能性があるといいます。
私は時々、自分自身を戒めようと思うときがあります。
≪終≫